えむえむっ! 番外編 限界突破の大食い対決! 松野秋鳴  二学期の終業式が終わり、学校は冬休みに。  そんなある日のこと。  俺、砂戸太郎《さどたろう》は、第二ボランティア部の部室に向かっていた。冬休みになっても部活は毎日のようにあるのだ。  部室の扉を開けると、 「……うぐっ!?」  なんか、異様な刺激臭が鼻の粘膜に突撃してきた。  な、なんだこの事件性を感じさせるような強烈な臭いは!?  恐ろしい異臭が部室に充満している。思わず鼻をつまむ。  と—— 「遅いわよ、ブタロウ!」  鋭い声が飛んでくる。  長い亜麻色の髪。  透き通るような白い肌。  国宝級に美しい二重《ふたえ》の瞳。  圧倒されるほどの超絶美少女。  その声の主は、第二ボランティア部の部長、石動美緒《いするぎみお》先輩だった。  石動先輩は、なぜか白を基調とした調理師が着るような服を着ている。  そして——  部室の中央には、浴槽ほどの大きさの釜が置いてあった。  その釜の中にはなにやら暗黒色の液体がなみなみ注がれている。  先輩はその液体を金属バットでかきまぜていた。どうやら異臭の原因はその釜の中の液体であるらしい。  部室の端のほうには、ショートカット気味の髪に大きな瞳が印象的な少女、結野嵐子《ゆうのあらしこ》が立っている。男性恐怖症で、男性の体に触れるとその男性を殴ってしまうという習性の持ち主だった。そのそばには保健医である鬼瓦《おにがわら》みちる先生がいる。二人とも異臭に困っているような表情をしていた。  俺はおずおずと、 「せ、先輩、あの……」 「なによ?」 「その、でっかい釜の中に入ってる液体はいったい……すごく臭いんですが……」  尋ねると、石動先輩はかきまぜる手を止め、 「これは——薬膳料理よ!」  と、ちょっと得意げな感じで言い放った。 「や、薬膳料理?」 「そうよ! あんたのドMを治すための薬膳料理!」 「え……?」  俺のドMを治すため?  先輩はにやりと笑みを浮かべると、 「あんたのキモすぎるドM体質を治すためには、食事療法で内面から変化させなければならない! 電撃的な発想力でそれを思いついたあたしは、あんたのためにいろいろ健康に良さそうな食材を集めて薬膳料理を作ってやってるのよっ!」 「…………」  俺はなんとも言えない気持ちで、その釜の中に入っている薬膳料理を見つめる。  この毒々しいオーラを放つ粘性の高い液体が薬膳料理だと? まだ魔王の糞尿と言われたほうが納得できるほどの代物だ。 「もうすぐ完成するから、そこで待ってなさい!」  先輩は言いながら、金属バットで釜の中の液体をかき混ぜる。えげつない魔法薬を作っている魔女にしか見えなかった。そのうち「イーヒッヒッヒッ!」とか魔女っぽい変な笑い声を発しだすかもしれない。 「うん、なかなかいい感じに仕上がってきたわね……イーヒッヒッヒッ!」 「あ、やっぱり笑い声出ちゃった」  やがて、 「よし、これで完成だわっ!」  先輩が額の汗をぬぐいながら言う。  部室に漂う異臭の濃度はさらに高まっている。この上なく不快だった。 「先輩……ちょっとお尋ねしますが……」 「なに?」 「その薬膳料理の材料には、いったいなにを使ったんですか?」 「材料は……とりあえず体に良さそうなものをってことで……」  石動先輩はちょっと考え、 「えーっと……青汁に栄養ドリンク、いろんな漢方薬、ニンニク、納豆、蛇の抜け殻、四つ葉のクローバー……あと、謎の黒い物体A、謎の黒い物体B、謎の——」 「ちょ、ちょっと!? 謎の黒い物体ってなんなんですか!?」 「謎の黒い物体C、謎の黒い物体D、謎の黒い物体E、謎の黒い物体F……」 「多いよっ! 謎の物体多すぎるよ!」 「それと、みちる姉秘蔵のアレ……」 「みちる先生秘蔵のアレってなに!? なんかそれが一番やばい気がします!」  俺はバッとみちる先生のほうを見る。みちる先生はなんか意味がわかんないがピースサインを俺のほうに向け、 「心配することはない、秘蔵のアレとはとても体にいいものだ。服用すると精神が覚醒して、三日ほど寝なくても大丈夫になる」 「それってマジでやばいものなんじゃないんですかっ!?」  法律で禁止されているような危ないお薬なのでは!? 「ごちゃごちゃうっさいわね!」  先輩は両腕を組みながら、撫然と言い放つ。 「薬膳料理は完成したんだから、早く——」  早く飲めと言うんですか? この怪しげな液体を? 「早く、この薬膳料理の中に飛び込みなさい!」 「はい……?」  飛び込みなさい? 「頭から飛び込んで、全身で薬膳料理を味わいなさい!」 「えっと……先輩、それはどういう……」 「ただ食べるだけじゃああんたの残念すぎる変態体質は治らないわ! だから全身を薬膳料理につからせ、全身の穴という穴や粘膜から薬膳料理を吸収するのよ!」 「…………」  俺は数秒間絶句したあと、回れ右をして部室から逃げだそうとした。 「待てい」  逃げようとした俺の後ろ襟を、先輩がむんずと掴む。 「なに逃げようとしてんのよ、ブタ小僧……」 「だ、だって……はあ、はあ、はあ……」  先輩の鋭すぎる眼光。俺はちょっと気持ちよくなってしまっていた。  先輩は俺の右腕を掴み、鋭い動きで俺の体の内側に入り込むと、 「というわけで——薬膳料理を召し上がれ!」 「うわああああああああああああ——っっ!?」  背負い投げのような要領で、俺の体を釜の中に放り投げた。  どばざあああんっ! と音を立てて俺の全身は黒い液体の中に突入する。 「ご、ごばああああああああ——っっ!? く、臭いを通り越してなんか皮膚が壊死《えし》しちゃいそうだよおおおお! で、ででで、でもきもちいいんだよおおおおおお!」  俺はばしゃばしゃと薬膳料理の中で溺れる。黒い液体が口の中に流れ込む。  あ、ああああああ、美少女の作ったクレイジー薬膳料理はとっても美味だぽおおおおおおおお! はあ、はあ、はあ、はあはあはあはあ……っ! はあんっ! 「おらあっ! もっと頭を潜らせなさい!」 「ご、ごぼぼっ!?」  石動先輩が金属バットで俺の頭をおさえつける。う、うひぃ!  おうおうおうおう! マジきもちいいぜえええええ!  釜の中でめちゃくちゃに動く俺。  その動きのせいで——釜がぐらっと傾いてしまった。  そして、釜が横に倒れてしまう。  ざあああああああああああ、と床に流れる薬膳料理。俺の体も一緒に流され、ぐるぐるぐるべちゃんっという感じで回転したあと床の上に倒れ込んだ。 「うわっ。ブタロウ、真っ黒でねちょねちょね」 「生まれたての妖怪みたいだな」 「タ、タロー、大丈夫?」  薬膳料理の溜まりの上で、俺はえへえへと気持ち悪い笑みを浮かべていた。  体育館の横にあるシャワー室で体を洗い、ジャージに着替えてから部室に戻る。  その途中、学校の中庭の辺りになにやら見慣れない大人たちが集まっていることに気付いた。華やかな衣装を着た人がいたり、作業服姿の人がいたり、大きなカメラを肩に担ぐようにして持っている人がいたり……あれはいったいなんだろうか?  俺がそこで立ち止まっていると—— 「ん? あれはなんなの?」 「あ……石動先輩」  部室のほうからこちらに歩いてきた石動先輩が、大人たちの集団を眺めながら言った。その後ろには結野とみちる先生もいる。  みんな、どうして部室から出てこっちに来たのだろう。  その疑問が顔に出ていたのか、 「部室があまりにも臭いからな」  みちる先生が俺に説明してくれた。 「あそこに居続けるのが苦痛になったので、臭いが消えるまで部室から避難しようと思ったのだ」 「それで、食堂で休憩しようと思ってこっちに来たの。食堂は体育館と同じ方向にあるから、途中でタローと合流できると思ったし」  と、結野が続ける。 「なるほど……」  確かに、あんな異臭のする部室には居続けたくない。  みちる先生と結野も大人の集団のほうに目を向ける。  みちる先生はいつもの抑揚のない口調で、 「あれは、テレビ番組の撮影だな」  と、言った。 「テレビ番組の撮影……ですか?」 「ああ。とあるテレビ番組の撮影で、高見沢昴《たかみざわすばる》という名のタレントが来ているらしい。そのようなことを教頭が言っていた」 「高見沢昴って……あ、あの、最近テレビによく出てる……」  俺は目を見開きながら言った。結野も同じような表情を浮かべている。石動先輩は「誰よそれ?」と首をかしげていた。  俺はじっと目をこらす。  確かに、いた。  大人たちの集団の真ん中、そこに——高見沢昴の姿が。  高見沢昴というのは、最近テレビで大人気の男性大食いタレントだ。ただ大食いができるだけではなく、アイドルなみのルックスも有している、いま最も旬なタレントの一人だった。 「ああ。じつは高見沢昴というのは、この桜守高校の卒業生らしいのだ。それで、タレントにゆかりのある場所を訪問するという番組の企画の一環として、この桜守高校に訪れたらしい」 「へえ……」  俺はぼんやりうなずきながら、高見沢昴の姿を見つめる。 「俺、芸能人を生で見たのはじめてです……うわあ、やっぱあり得ないくらいにかっこいいな……」 「わ、わたしは、タローのほうがかっこいいとごにょごにょ……」 「結野? なんか言ったか?」 「な、なにも言ってないですよっ! はい、なにもっ!」  結野は顔を真っ赤にしながらぶんぶん首を横に振る。なぜ敬語なのだろうか。  休憩を挟んでいたらしい撮影が、再開される。  番組の司会である女性タレントが「次は桜守高校の生徒さんと大食い対決のコーナーです!」と言った。どうやら番組のちょっとした余興として、高見沢昴と生徒の誰かが大食い対決をするらしい。  司会と高見沢昴がギャラリーの生徒たちを見回しながら、対戦相手を誰にしようか話し合っている。  そのとき、 「これは……チャンスだわっ!」  と、石動先輩が興奮した面持ちで言った。  そして、俺のほうに顔を向けると、 「ブタロウ! この大食い対決に出なさい!」 「……え?」  大食い対決に俺が? なんで? 「大食い対決に出て、あの高見沢とかいう奴に勝つのよっ! で、勝ったあとカメラに向かってこう言うの——『俺は第二ボランティア部に大食いになりたいという願いを叶えてもらいました! みんなの願いを無償で叶えてくれる第二ボランティア部、マジで最高です!』って」 「せ、宣伝のためですか!?」 「そうよっ! テレビに出て全国的に宣伝するの!」 「い、嫌ですよっ! つーか俺が大食いになりたいという願いを叶えてもらったって話は大嘘ですし、なにより俺が高見沢昴に勝てるわけがありません!」 「そこは気合いと根性でなんとかしなさい!」 「無理です! 気合いと根性で胃は拡張しません!」 「いいから出なさい! これは命令よ!」  先輩は横暴に言い放つと、俺の腕を掴み、テレビの撮影をしているところにずんずん進んでいく。  そして、 「対戦相手ならここにいるわっ! うちのブタロウが相手してやるわよっ!」  と、偉そうに言った。 「せ、先輩!」 「ブタロウはすげえ大食いなのよ! だから、あんたになんか楽勝できるわ!」  先輩は高見沢昴に向かって告げる。  せ、先輩、なんてことを……  高見沢昴は俺と先輩を見つめると、 「よし……じゃあ、対戦相手は君にしよう」  と、言った。  マジですか!?  司会の女性タレントが「対戦相手は、このかっこいい男の子に決定しました! それでは高見沢昴さんと対戦してもらいましょう!」と言った。  そのあと、撮影スタッフの誰かが「いったん止めまーす!」という大声を上げた。撮影は一時的に中断する。 「やったわね、ブタロウ! 対戦相手はあんたに決定したわ!」 「い、嫌だ……嫌すぎる……」  俺が青い顔でつぶやいていると——  高見沢昴が、こちらに歩み寄ってきた。  正々堂々と戦おうとかそういう挨拶をされるのだろうかとドキドキしていると、高見沢昴は俺を完全に無視して石動先輩の前に立った、  高見沢昴は先輩の顔をまじまじと見つめている。 「君……」 「あん? なによ?」 「君、とってもかわいいね」  と、高見沢昴はほほ笑みを浮かべながら言った。俺が女性なら確実に心を持って行かれただろうというイケメンスマイルだった。 「テレビで活躍するアイドルたちの中でも、君レベルの子はなかなかいないよ。もしかして、君も芸能人だったりするのかな?」 「芸能人? 違うわ、あたしは神様よ!」  えっへん、と薄い胸を張りながら告げる先輩。  石動先輩は自分のことを神様だと自称していた。本気で言っているのかどうかはわからないが、ちょっとアレな感じであります。  高見沢昴は冗談だとでも思ったのか「あはは」と笑うと、 「神様……君、なかなかおもしろいことを言うね」 「……おもしろいことを言ったつもりはないんだけど。なんか失礼な奴ね」  先輩は不機嫌そうな感じで告げる。 「まあ、君はとびっきりの女神ではあるんだけど」 「あんたなに言ってんの?」 「ふふ、照れてるのかな? ますますかわいいね」 「だから、ほんとになに言ってんのよ? かわいそうなくらい頭が悪いの?」 「君、名前はなんて言うんだい?」 「石動美緒さまだけど」 「美緒ちゃんか……いい名前だ」  高見沢昴は笑みを広げると、 「僕、今日はこのあたりのホテルに泊まる予定なんだけど……もしよかったら撮影が終わったあとにそのホテルで会わない?」 「な——」  と、俺は驚いた声を上げる。  そういえば、なにかの週刊誌で読んだことがある。高見沢昴は女癖が悪くて有名で、これまで何人もの女優やアイドルたちと関係を持ったらしいと。  でも、まさか自分が卒業した高校の生徒を口説こうとするなんて…… 「あ、あの、高見沢さん、それはさすがに……」  俺は思わずそう言ってしまっていた。  高見沢昴は笑みを消した表情で俺を見ると、 「なんだ? なにか文句でも?」 「文句というか……石動先輩にちょっかいを出すのはやめてほしいというか……」 「そんなこと君には関係ないだろ? なんだい、もしかして女の子を守るナイト気取りってやつ?」 「そういうわけじゃないんですけど……」 「ふん……あ、そうだ、いいことを思いついたよ」  高見沢昴はにやりとしながら、 「もう少ししたらはじまる大食い対決で賭けをしようじゃないか。もし僕が勝ったら、美緒ちゃんと一晩一緒に過ごすことができるってのはどう?」 「は、はあ!?」 「君が勝ったら美緒ちゃんを守ることができる。ナイト様の面目躍如。美緒ちゃんも君を見直すと思うけど」  この人は、いったいなにを言っているのだろうか。  俺が絶句していると、 「もしブタロウが勝ったら、あんたはなにをしてくれるの?」  先輩が高見沢昴にそう尋ねていた。 「僕が負けたら? はは、僕が負けたら、なんでもやってあげるけど」 「じゃあ、もしあんたが負けたら、テレビカメラに向かって第二ボランティア部のことを宣伝しなさい」 「ちょ——せ、先輩!」 「宣伝? いいよいいよ、そのくらい。それじゃあ賭けは成立だね」  高見沢昴は満足げな表情を浮かべると、 「楽しみにしてるよ、美緒ちゃん」  言って、撮影スタッフがいるほうに戻っていった。 「せ、先輩!」  俺は先輩に向かって言う。 「ど、どうしてあんなこと言ったんですか!?」 「大丈夫よ。あんたが勝てばいいだけじゃない」 「無理に決まってるじゃないですか!」 「まあもし負けたとしても、一晩一緒に過ごすだけなんだし」 「は……一晩一緒に過ごすだけって……」 「一晩一緒にテレビゲームでもしてやればいいんでしょ? あいつ、こんな賭けをしてまで遊ぶ相手がほしかったなんて……そんなに友達がいないのかしら」 「…………」  うわあ……先輩、『一晩一緒』の意味をまったく理解していない。  俺は愕然としてしまった。  そして——  大食い対決がはじまってしまう。  中庭に設置された寿司屋のカウンターのような舞台セット。  そこに、俺と高見沢昴が横並びで座っている。  俺たちの前、寿司カウンターの中には二人の男性がいる。彼らは俺たちに寿司を作るための寿司職人さんらしい。右にいるのが高見沢昴が食べるお寿司を作る人で、左にいるのが俺のお寿司を作る人だ。  司会が「今回はお寿司の大食い対決です!」と言った。「三十分以内により多くのお寿司を食べたほうが勝ちです!」とも。 「ふふ……お手柔らかに」  高見沢昴は余裕の表情を浮かべている。  くそ、なんでこんなことに……  俺なんかでは高見沢昴に勝てるわけがない。でも、負けたら先輩がこいつと一晩一緒に過ごさなければならないことになってしまう。  どうすりゃいいんだよ……  どうすりゃあ……  司会が、 「それでは、大食い対決スタート!」  と、言い放った。  ギャラリーの拍手と声援が勝負を盛り上げる。  ついに勝負ははじまってしまった。  寿司職人が作ったお寿司がカウンターの上に乗せられる。マグロのお寿司。一つのお皿にお寿司は二個。  高見沢昴がお寿司を口に運ぶ。  いまさら棄権することなんてできない。ましてや賭けを無効にすることも。  だったら……全力を尽くすまでだ。  そう思った俺は、勢いよくお寿司を口の中に運んだ。 「おお、すごい気合いだ。がんばれがんばれ」  高見沢昴は俺にだけ聞こえるような小さな声で言うと、次に出されたハマチのお寿司を食べる。 「ブタロウ、がんばりなさい!」 「タロー、がんばって!」 「がんばれ砂戸太郎」  石動先輩、結野、みちる先生の声援が飛んでくる。  俺はお寿司を食べる。次々と食べる。  だが—— 「……う、うっぷ」  二十皿ほど食べたところで、俺の胃が限界を訴えてきた。 「どうした? 苦しかったら棄権してもいいんだよ?」  高見沢昴は淡々と同じペースで食べ続けている。いま彼は二十五皿。それでもまだまだ余裕がありそうだった。  や、やばい、これはやばい……  俺は泣きそうになりながら、さらにお寿司を詰め込んだ。もう味なんてまったくわからない。苦しくて苦しくてたまらない。  二十四皿——ダメだ、これ以上はもう無理だ。絶対に入らない。 「ぐ……」  俺は思わず口を両手で覆う。なんかいろいろ逆流しそうになった。 「おいおい、吐くのだけはやめてくれよ。これはテレビなんだから」  高見沢昴はにやにやしながらお寿司を食べる。彼はもう三十皿だ。  ち、ちくしょう……このままだと、石動先輩が……  いったいどうすれば…… 「そ、そうだ!」  そのとき俺は、ある策を思いついた。  かなり危険な策だが……  やるしかない。 「あ、あの!」  俺は片手を上げ、司会をしている女性タレントに言った。 「お寿司を作る人を交代してもらってもいいですか?」 「交代……ですか?」  司会はきょとんとしながら言う。  俺はうなずき、 「はい。そこにいる——石動先輩と」  人差し指を先輩のほうに向けながら告げた。 「へ? あたしに?」  先輩は首をかしげている。 「先輩、お願いします」  俺は真摯な面持ちで言う。 「俺、先輩の作ったお寿司が食べたいんです。先輩の作ったお寿司なら、もう少しがんばれるような気がするんです」  俺の言葉を聞いた石動先輩は、なんか息を呑んだような表情を浮かべた。  司会は困惑した様子で、高見沢昴の顔色をうかがう。  高見沢昴は簡単に「いいんじゃないか」と言った。悪あがきをする俺をおもしろそうに眺めながら。  石動先輩は力強くうなずくと、言った。 「わかったわ! あんたのお寿司、この美緒さまが作ってやるわよっ!」 ——石動先輩がカウンターの中に入る。  よし、これだったら…… 「先輩、自由にお寿司を作ってくださいね。ただシャリの上にネタを乗せるだけじゃなく、先輩のオリジナリティーを存分に発揮してください」 「そうするわ!」  先輩は大声で言ったあと、シャリを握る。かなり不器用な手つきで。  そして、できあがったお寿司は 「ヘイ! イカのお寿司おまちっ!」  イカのお寿司……  が、なぜこんなにも黒いのだろうか。 「さっきの薬膳料理のときに使った謎の黒い物体をお寿司に練り込んでみたわ! 自信作よっ!」 「…………」  微妙に変な臭いのするそのお寿司を手で掴む。持ち上げる。  これを食べれば……もしかしたら……  俺は「えいやっ!」と気合いの声を放ちながら、お寿司を口の中に投げ込んだ。  その瞬間——  味覚が爆裂した。 「ぎゃ、ぎゃばああああああああああああああ!」  あり得ないくらいクソまずい! あり得ないくらいクソまずい! 悲惨なことなので二回言いましたああああああああああああ!  だが、そのクソまずさが——俺の精神を高揚させるうううううううう! 「はあ、はあ、はあ、はあはあはあはあ……み、みおみおみおたんんんんん! さ、さいこうだよお、さいこうのおすしだよぉお! こいつは至高で究極のお寿司であるまげどーん! どんどんどーん! スーパーデリシャース!」  美少女の作ったクソまずいお寿司。  それが、俺の変態ドM体質を覚醒させていた。 「も、もっともっともっともっと作ってプリーズ! みおっちの激やばお寿司をどんどん作っておくんなせえええええええええええ!」 「よっしゃ! どんどん作ってやるわよ!」  石動先輩が次々とお寿司を仕上げる。俺はげへげへ破滅的な笑みを浮かべながら、そのお寿司をすごい勢いで胃の中にぶち込んでいく。ドM的な興奮状態に支配されている俺は、満腹中枢の指令や胃の許容量なんか知るかという感じでお寿司を食べ続ける。  両手でお寿司を鷲掴み、ほとんど噛まずに胃の中に投入。 「な——」  高見沢昴が焦ったような声を上げる。 「く、くそ」  慌ててお寿司に手を伸ばす高見沢昴。 「はあはあはあはあはあ、いいよおマジでいいよお! みおっち寿司はマジでいいよおおおおお! 食べれば食べるほど気持ちよくなっていくううううう! あは、あはははははひゃっひゃああ————っっっ!」  そして、勝負時間の三十分が過ぎ—— 「な、なんと……驚きの結果が出てしまいました!」  と、司会の女性タレントが言った。 「高見沢昴さんが食べたお寿司、五十八皿。そして、砂戸太郎くんが食べたお寿司は……なんと、六十一皿です!」  ギャラリーから驚嘆の声が上がる。 「そんな……この僕が……」  高見沢昴は呆然としていた。 「な、なんとか勝てた……うっぷ……」  俺はつぶやくように言う。限界以上に食べたせいか、もう苦しいを通り越してめまいがしている。 「やったわね、ブタロウ!」  先輩は満面の笑みを浮かべながら俺の両手を握り、上下に振ってくる。せ、先輩、そんなに揺らさないで……マジで逆流しちゃうから…… 「あり得ない……この僕が負けるなんて……」  高見沢昴は放心状態でつぶやいている。ちょっとかわいそうだった。  が、高見沢昴はハッと顔を上げると、 「そ、そうだ! こいつが食べたものを吐き出せば、僕の勝ちに……」 「——っ!?」  かなりせっぱ詰まった表情を浮かべながら右拳を振り上げ、俺の腹を殴ろうと—— 「……卑怯なことすんじゃないわよ、クソ野郎」  その右拳は、石動先輩に止められていた。 「この、顔だけの能無し芸能人が! あんたなんかがブタロウに勝てるわけないないだろうがあああ——っっ!」  先輩は言いながら、高見沢昴を蹴り上げた。  蹴り上げた!? いま最も旬なタレントの一人を!? 「ひぎゃああああああああああ!」  高見沢昴は叫びながら後ろに吹っ飛んでいく。  運が悪いことに、そこには結野がいて—— 「ヒ、ヒィィィッ!? 男の人こわいよおおおおお——っっ!」 「ごばああああああっ!?」 「てめえ、なにうちの嵐子を怖がらせてやがんのよっ! マジでぶっ殺す!」 「ぎょ、ぎょああああああああああああああああ——っっっ!」  先輩と結野にぼこぼこに殴られる、いま最も旬なタレント。俺はその光景を青い顔をしながら見つめている。  言うまでもないことだが、現場は死ぬほど騒然となった。 「やれやれ……骨折り損のくたびれもうけね……」  部室の椅子に座りながら、石動先輩が言った。  さっきの騒ぎのせいで、テレビ番組は撮影中止となった。放送もされずお蔵入りになるらしい。第二ボランティア部を全国的に宣伝するという先輩の思惑は失敗に終わってしまったのだ。  俺たちはすげえ怒られたが、法的に訴えられたりはされずにすんだ。その代わり、俺が大食いで高見沢昴に勝ったという事実はなかったことにしてくれと頼まれた。タレントのブランドを守るためにと。俺はすぐに了承した。 「ご、ごめんなさい、わたしがあの人を殴っちゃったから……」  結野がしゅんとした様子でつぶやく。いや、それだったら最初に蹴った石動先輩のほうが遥かに悪いわけだから、結野が気にする必要はまったくないと思う。  俺はふうとため息をつく。  それにしても、俺も無茶をしたもんだ。ドM的な興奮状態を利用して、大食い対決に勝とうとしたなんて。  周りにはギャラリーの生徒たちがいっぱいいた。下手をすると、その生徒たちに俺がドMだってことがバレていたかもしれないのに……でも、あのときはそんなこと考えなかった。ただ、高見沢昴の毒牙から先輩を守ることに必死で。  と——  いつの間にか、俺の前に石動先輩が立っていた。  先輩はうつむきながら、小さな声で、 「さっき部室に戻る途中、みちる姉にあのタレントから賭けを提案されたんだ的なことを話してたんだけど……そのとき、みちる姉から教えられたの。『一晩一緒』って言葉に隠された意味を……」 「あ……そ、そうなんですか……」 「それで、あんたがなんであんな必死に勝とうとしていたのかわかったわ。あんたは、あたしのために……」  言ったあと、先輩の顔がみるみる赤くなっていく。  無意味に髪を撫でたり、なんだかあせあせとした様子で、 「だ、だから、ちょっとぐらいはお礼を言ってあげてもいいような気がしたというか、えっと、その——ん? ブタロウ、どうしたの?」 「…………」  俺はおなかを押さえながら、苦痛の表情を浮かべていた。 「な、なんか、急に腹に激痛が……恐ろしいほどの激痛が……」 「おそらく……限界を遥かに超えた大食いのツケが、いまやってきたのだろう。その前にも君は美緒の作った薬膳料理を浴びるほど飲んでいるしな」  と、みちる先生が冷静に告げる。 「ぬ、ぬごおおおおおあああああああああああああ——っっ!?」  あり得ないほどの超激痛が腹部を襲う。  俺は部室のドアを開け、トイレに向かって神速で駆けていった。  ——それから三日間ほど、俺は地獄の腹痛に苦しむことになったのだった。 発行 2009年9月27日 090913